インターネットが普及した今だからこそ、手紙を書くことをして欲しい。
この中で誰かと手紙のやりとり、いわゆる文通をしたことがある人はどれ程いるのだろうか。
母の日などのイベントで感謝の手紙を渡したことがある人は多いだろう。
やりとりとなると経験した事のある人はグッと少なくなるのではないだろうか。
最近はインターネットの成長が著しく、アナログな手紙を書くことがめっきり減ってしまった。
書いてはいけない訳ではないのにも関わらず、何かを取り上げられてしまったかのような寂しさどこかある。
簡単に残せるデータにまみれた私たち
最近ふと、データ化されたデータを見返すことが非常に少なくなったように思う。
仕事のメールや要件であれば、効率的でいいだろう。
家族や友人からの励ましのLINEも、恋人から褒められたことや言ってもらえて嬉しかったメールも、心に刺さった文章を大人げもなくスクリーンショットで残すことがある。
誰でもワンタッチで簡単に残したいものを残せるようになったのだ。
しかし、いとも簡単にデータ化して残せるようになってしまったからこそ、私たちはデータに溺れ、データを見返すことをもしなくなってしまったように思う。
そう思うのは私だけなんだろうか。
そんな中、手紙という物体は何かの節目で見かけては読み返したりしたことはないだろうか。
待つ時間だって好きになれる
実は母親と文通をしていたことがある。
数にしてたった二十と数通のやりとりをね。
もう十年も前なのに今も褪せることなく残っている。
離婚して単身で三重県に住み始めた母と北海道にいる私は、父に内緒で6年間に渡って文通をしていた。
電話では着信履歴が残って父にバレてしまうから手紙しか方法がなかった。
いつくるか分からない手紙を待つ時間はワクワクして楽しい。
「今日来るのかな?」
「明日届くのかな?」
なんて考えたりして毎日待ち遠しく、頑張れる原動力というかもはや生きる活力のようにもなっていた。
LINEの未読だ、既読だで一喜一憂してはいないだろうか。
簡単に送信できてしまうデータだからこそ、相手も簡単に返信できるはずなのに返ってこないと嘆く。
手紙という大変な一手間を加えた、心のこもった文字を待ってみよう。
待つことの楽しみと来た時の喜びを噛み締めようではないか。
1日数回、中にあって欲しいと願いながらポストを開ける瞬間だってきっと好きになれるよ。
アナログな文字だからこそ伝わる感情がある
打てば型にはめられた誰もが読みやすい文字、電子化された感情が乗り切らない綺麗な字体に収められる。
綺麗な文字だけでは、書き手の想いは意図したように届かないことをこのオンライン上で痛感することとなった。
手紙では不器用な文字が並ぶこともあれば、筆圧の強い文字を見かけることもあるだろう。
時には震えている文字だって見かける場面もあるかもしれない。
書き手の想いが込められた1文字、滲んで読めなくなったそこにあったはずの1文字すら、愛おしいと私は思う。
手間をかけて書いてくれたその心遣いだって、貰い手の心に温かみを宿すだろう。
インターネットが普及した今だからこそ手紙を書こう
家族でも、親しい友人でも、お世話になった恩師でも良い。
やりとりにまで発展しなくても良い。
まずは書いて送るという一歩を踏み出してみよう。
このデジタルな時代だからこそ、アナログな文字の強みが生きてくる。
デジタルな文字で「送ったよ」なんて送信したのなら、貰い手は首を長くして待つことだろう。
事前に送らなくたってドッキリだ。貰い手はきっと喜んでくれるに違いない。
手紙を貰って嫌な人はそうそういない。誰しも嬉しいものだよ。
当たり前ではなくなった今こそ、手紙を書くことの価値があるはずだ。